外界の風は、素晴らしいほどすがすがしく僕の体を横切っていき、

日の光はとても優しく、それでいてとても温かく僕に降り注ぐ。

初めて外に出た訳でもないのに、これほどまで感動するとは思いもしなかった。

僕の部屋に流れて込んで来ていた外の空気とは、また別の何かがあるみたいだ。

今までの僕は何だったのだろう?…僕はここから変われるんだ。

…きっと。

だけど、僕の手に触れている君の手は、この外界の空気よりも遥かに強い力で、

僕の心を弾ませる。と同時に、僕の心を締め付ける…。

(…今日の君は、何かが違っている気がする)

ふと、そんな考えが僕の脳裏を横切った…。

でも今の僕は、外界の空気と繋げられた手に心を奪われてしまっている為に、

そんな些細な事を気にとめる余裕などは微塵も無かった…。

後に後悔する事も知らずに…。

期待と不安に胸弾ませながら、僕の人生の分岐点に差しかかろうとしている。

 

 

十数分ほど歩いている最中も、絶え間ない会話が繰り返されていた。

その会話の中で、今日の彼女は仕事が休みという事が分かった。

…そう、彼女は休日にも関わらず、僕の為に来てくれているのだ。

僕にはそれが、たまらなく嬉しかった。

(僕の為に自らを犠牲にしてくれている)

そう思うと、胸が締め付けられて涙がこぼれ落ちそうになった…。

そういえば、彼女の雰囲気がいつもとは少し違う気がしたのは、

彼女の仕事が休みのせいなのかもしれない。

いつもと違う服装…髪型…表情…。

それらすべてに違和感を感じたのだろう…と思う。

絶え間ない会話を繰り返す中、程なくして僕等は街中へと歩を進めていった。

 

 

流石に街中ともなると、人が大勢行き交っている。

僕の心は不安に駆られ、彼女と繋がれた手を無意識の内に強く握り締めていた。

僕の手には汗がにじみ、僕の心は街行く人達の視線に恐怖さえ覚える…。

不安と恐怖心が僕の身体全てを支配し始めた。

無口になった僕を横目に、繋いだ手をしっかりと持ったまま、

彼女も無言になりながらも早足で歩を進めてくれていた。

だけど、何故か僕等の行く先には人の数が更に増えている気がする…。

人ごみを掻き分け、彼女と繋いだ手を離さないように…離されないように、

僕は一生懸命彼女の後を追っていた。

…が、彼女が急に立ち止まって一言つぶやいた。

「ねぇ…海を見に行かない?」

…海!?

僕は今朝見た夢を思い出し、頭の中で必死に拒否していた…。

けれども、その事が言葉として表に出てきてくれない。

(…彼女には逆らえない。)

無意識の内に、彼女に嫌われる事への恐怖心が僕の中で僕に働きかけている。

 

 

僕の中で彼女に従う事が、義務みたいな状態に陥ってる為、

彼女の半強制的な言動・行動に逆らう事も出来ないまま彼女の後を追って行く。

次第に増える人ごみを掻き分け、やっとの事で駅へと辿り着いた。

2人は電車へ乗りこみ小1時間走らせた場所にある小高い山へ向かっていた。

彼女は僕の心境を察したらしく、直接海へ行くのはやめたらしい。

彼女が言うには、その山の切れ目が崖になっていて、

そこから見える海が凄く綺麗だと熱弁している。

僕はその熱意に惹かれ、好奇心と義務とが折り合ってしまった為に、

先ほどまで海を拒否していた心境はどこかへと消えていってしまっていた。

頭の中で、その場所の景色を思い浮かべながら電車に揺られていた。

…と、途端に周囲の人々の視線が気になり始め、僕は現実へと引き戻された。

襲いくる恐怖心、不安に支配される心、不意に彼女が僕の方を見てくれた。

僕もそれに応え、彼女の視線に僕の視線を重ねた。

…何故か彼女の瞳からは、包み込むような優しさは消えていた。

今は、憂いの眼差しで僕を眺めている。…僕には彼女が、物凄く遠く感じた。

 

 

電車から降り、それほど険しくも無い山道を彼女と並んで歩いていた。

それほど険しくも無かったのだが、しばらく外出をしていなかった僕にとって、

かなり厳しい道のりになっていた。

僕は息を切らしながらも、好奇心が先立っているので必死に歩いている。

彼女は平然な顔をしながら、僕の歩くペースに合わせてゆっくり歩いてくれる。

その途中の道のりでは、時々ではあるものの他人とのすれ違いもあった。

すれ違う人々は、確実に僕を見ている…しかも少し避けるような視線で…。

不安と好奇心が入り交ざった状態のまま、やっとの思いで頂上へと辿り着いた。

少し先に山の切れ目が見え、そこでは数名の人が景色を眺めていた。

僕等もそこへ歩を進める…そこは、彼女の言った通りの景色だった。

見渡す限り一面の海、その先には僕の視界を遮るものは何も無く、

全てが壮大に広がっている。

足元は崖になってはいるものの、それほど高い山ではない為に、

落ちても死ぬ事は無いと思われる程の高さだった。

その崖には幾度となく、大きな波が打ちつけ続けられていた。

 

 

…どこからか視線を感じる。

そういえば、ここに来る途中もすれ違う人に、少し避けられていたような…。

少しの間、僕がさっきの出来事を思い出しながら一人で悩んでいた。

「本当に少しだけだとでも思ってるの?」

不意に彼女が僕の心を見透かしたかのように、そう言い放った。

僕は驚いて、彼女の顔を見上げた。

彼女の瞳からは優しさは消え失せ、鋭い眼差しが僕に牙を向けていた。

しかし、彼女の瞳には憂いが残っている…いや、違う。

あの瞳は愁いを帯びているのではなく、哀れみの目だ…僕を哀れんでいたのだ。

その鋭い眼差しが僕から離れ、今僕等が来た方向へと移っていった。

僕の視線も彼女の視線に伴われ、今来た方向へと移らされた。

……!?……今まで僕と同じように景色を眺めていた人達が、

僕を避けるように僕から遠く離れた場所で、僕を嫌悪の眼差しで眺めていた。

「あははははは……………」

何も遮るものの無い風景に、高らかに鳴り響く笑い声。

恐る恐る彼女を振り返って見る…。

僕を蔑む眼差しが、牙を剥き出しにして僕に襲い掛かっている。

僕は彼女に恐怖すると共に、錯乱状態に陥っていた。

 

 

改めて自分の外見を振り返ってみる、確かに僕の容貌は異様なものがあった。

部屋に閉じこもっていた時間が、僕の外見をも変えていっていた。

長く整えられていない髪型、薄汚れた服装、むくんだ体形、かび臭い体臭…。

外界を避けていた期間と、彼女との外出、その出来事が僕の頭から

外界のしきたりを忘れさせていた。

「私の悦びは他人の絶望。私の至極の悦びの為には、絶好の職業って訳。」

彼女は僕を蔑む眼差しで冷たく言い放った。

無論、彼女は僕の外見の事にも気付いていたのだ。

全ては彼女の計算通りに事が運ばれていた…。

(また、騙された…)

僕の心は粉々に打ち砕かれて、羞恥と絶望に意識を失いかけた。

僕の心を打ち続けながら鳴り響く彼女の笑い声。

(…僕の愛すべき者は、この世界には居ない。)

今まで生きてきた中の裏切られイジメられ蔑まれ続けた出来事だけが、

僕の頭の中を走馬燈のように駆け巡る。

僕は、失いそうな意識の中で最後の気力を振り絞り、海へと身を投じた。

(僕の愛すべきもの…それは…)

 

 

                             完

 

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